横光利一『夜の靴・微笑』と田舎の問題

戦時下、東北地方に疎開して、そこで終戦を迎えた横光の日記体小説。先日も書きましたが大変面白かったです。横光というと「機械」での心理の移り変わりの描写等、小説という形式に意識的な作家だというイメージでしたが、この作品は田舎の人々の淡々とした生活とその描写、さらにそれに挿入される人生哲学的な面白いコメントという率直なスタイル。横光の理知的な小説というのは、本人のこういう根本的な人としての面白さに支えられていたんだなと改めて感心した。


横光の田舎観というのは、都会の作家という土から遠い職業の人の見方と考えて良いと思うけど(出身は福島らしいが)、やっぱり、今、僕が田舎を論じるとしたら出てくるような田舎の人材の不足とか、田舎の人のやる気を吸い取る魔力のようなものとは無縁なんだなあとも思う。この人のやる気を吸い取る魔力っていうのは、逆に言えば、都会では人が時間に追いかけられてギスギスしているけど田舎に行くと落ち着くというような言い方にもなるんだと思う。こうなると田舎と都会どっちが性分に合うのかっていう話にしかならないんだけど、個人的には田舎で生きるのはツライと思っているので、「夜の靴」読んでおもしろいと思いつつも遠さを感じるわけです。風景の美しさとか田舎の人間の頭の良さとかそういうものはあると思うものの、その中で自分が生きていけるのかというと別の問題になってくるという話。中野重治の「村の家」で、警察から釈放されて田舎へ戻った主人公が父親と対決するシーンっていうのは、この問題を扱ったものだと思う。この場合「田舎」っていう言葉よりも「持続的な時の流れの積み重なったもの」とかって言い換えた方がいい気もする。簡単に言っちゃえば保守的なスタンスを取るときに、より所になってる感覚的なもの。前衛的なスタンスというのは根拠とは何かということを考えないが故に、根拠を問われた時にあっさりと壊れて、保守的な方へと流れていったりもする。しかし「村の家」というのは根拠は何かという答えは出せないものの、それでも保守的な方へは流れず前衛的なものに留まらなければとしているのが面白い作品だと言えるんだろう。主人公は父親の一旦落ち着いた生活をしてみないかという誘いにたいして、ワナのようなものを感じた。落ち着いた生活、言い換えれば全ての本になるような根拠のようなもの、そういう根拠とは何かという問題を考えたら、おそらくほぼ確実に保守的なスタンスが勝つに決まってるんだろうから、それは確かにワナだと言うべきものなんだろう。政治的な問題があった時には、結構保守よりなスタンスとることが多い僕ですが、そういう生活的なレベルでは根拠レスで、非倫理的な生活であっても、進歩派きどらなくては頑張ってるとは思えないわけですよ。


上記文章、読んだ人いるのか知りませんが、乱筆乱文失礼しました。基本的にもっと丁寧に一つ一つ説明していく所を自分タームでばっばと書いていったので、大変読みづらいと思います。しかも途中から横光関係ないし。まあ雑なものではあるんだけど、ちょっと丁寧に書いてみたくなったテーマでもあるのでこのまま載せます。横光利一『夜の靴・微笑』は講談社文芸文庫なのでもう絶版でネット書店には無さそうです。店頭では本屋によってあったり無かったりという感じですが、まあ無くならないうちに買っておいた方がいいですよ。ていうかamazonでは今、古本で一冊ありますね。買っていいと思います。
amazon/横光利一『夜の靴・微笑』