本上まもる『<ポストモダン>とは何だったのか 』

一世を風靡したポストモダン思想についてどうだったのか考察した本。新鮮な史観に感じられて面白かったです。で、冷静に考えたら仲正昌樹とかがポストモダンがどうしたとかって本は出してたよな、とか思い出しました。まあ、そういう人達とは何が違うのかっていうと、浅田と柄谷が出てくるのはもちろんなんですが、そこで終わらずに東浩紀福田和也にまで歴史の線をひいて柄谷や浅田のことを考えてるってことです。要は柄谷や浅田もそれなりにポジティブにとらえらています。
仲正とか稲葉振一郎ポストモダン批判ていってるの読むと、感覚的な感想のレベルの話ですが、ポストモダンの悪い部分だった人達がいまさらポストモダンを批判してもなーって思ってましたから、感覚的に共感できる部分が多いここ何十年かの状況論でした。
ただ、感覚的に共感できるから良かったっていうのが一番の褒め言葉なぐらいで中身はもう一歩踏み込んでくれても良かったのにという不満感も残ります。ブログとかで自分より知識が多い人がささっと書いたものがおもしろく感じられる感覚に近い。唐突にドゥルーズベルクソンの部分は評価しない、ガタリとの共作の方を評価するとか出てきたり、理論的にもひとくせあるものをもってそうな空気は香ってくるものの、もろには書いてくれてないです。
あとはまあ悪い方の面で言えば、唐突に妙な毒が紛れ込んだりしてきてて、精神的に病んでるっぽいもしくは子供っぽい感じはするなあって所でしょうか。ネットでもそんなん気にしなくてもいいじゃん、みたいなのに妙に神経質に怒る人いますけど慣用句的な意味での「神経症」っぽい感じがあった。浅田のクラインの壺のを批判して恥かいた人がいたよねとかって、書くんなら直接書けばいいじゃん、もしくは書かないかって思った。まあこういう「神経症」っぽいのって子供だからなるんだろう、小物だからなるんだろうとかって昔は思ってましたけど、この歳になって思うと、全然減らないで、公のメディアでもばんばんみるようになった感があります。これって、僕が大人の社会を過信していたせいなのか、それとも時勢柄こうなってしまったのかどっちか判断つきません。

というわけで、この本の総括をしますと、もっと内容濃いめに書いてくれたら、かなりの名著になったのにという感じ。今のところだと、今まで本になってなかった層の状況史観の人達を代表したという意味合いだけかな。僕はもろにそこに属しますし、それなりに多くの人がいるとは思うので、反響もそれなりにはあるかなー、でも、内容的にはそんな踏み込んでないから、そんな反響無いかなーとかそんな感じなで人に勧めるかいなか迷うレベルの本。
ちなみに帯は斉藤環

本書の主張には賛成できない。しかし本書の「魂」には共振してしまった。いまこそ広く読まれるべき本である。

とあります。
で、関係あるのかどうか知らないけど、ラカンの所は結構筆を割いていて面白かった。著者は1970年生まれ。京大法学部出身。現在三島由紀夫論を執筆中とのこと。どんな人なんでしょうね?