『嫌オタク流』の感想

まず、本の感想を言う前に自分のオタク文化との関係について言うと、僕の場合1997-2001という時期に大学生活を送り、東浩紀などがオタク文化を取り上げ、ライトノベル(これは多分卒業後だけど)などが盛り上がろうとしているのを横目にというかバカにしつつ、自分は純文学・思想系の人間になろうと思っていたので
、今となっては完全に負けたなあと思いながら、オタク文化を適度に受容しています。まあ見るとそれなりにおもしろいんですよね。ハルヒも見たし、地獄少女も見ましたね。げんしけんに至っては好きなマンガの上位に入りました。あとアニメ苺ましまろもかなり好き。まあ、完全なオタクになろうとは思いませんが。
最近の、萌えブーム、オタクブームについて思うに、僕みたいな嫌オタク派だった人が負けを認めて、おもしろいなあと受容しているっていうのもブームの一因としてあるかなと思っていたところに、『嫌オタク流』という本があるというのを知ったので読みました。いや、意味のあることだと思うんですよ。僕に限ったことではなく、ついこの前までオタク文化なんて屁みたいなもんだっていう扱いだった社会全体が、おいおいっていうぐらいオタク文化とりあげてる状況に対して、嫌オタクって敢えて言うことは。まあ、実際の所本読んだ感想は、高橋ヨシキって人がやたらオタクに憤ってるんだけど、そのオタク像がなんかちょっと人間離れしてるレアケースに思えたので、全然その憤りにノれなかったので、凄い消化不良でした。まあ、オタク文化ってエロじゃんって言われて、ああそうか。そりゃエロは売れるよねっ気づかされたことか、後半で更科修一郎が結構いろいろ整理してくれたこととか。
そもそもの高橋ヨシキが憤っているオタク像ってのが、自分は純粋で遊んでいる奴はDQNとか言ってるのに、実際はエロイ文化ばっかり受容してるじゃねーかよってことなんだけど、これがイマイチぴんとこない。エロゲまでやってるやつは、ある種割り切ってて、純粋とまでは思ってないんじゃないかということと、犯罪をしたいという願望と実際やるやつは違うだろ理論がやっぱり出て来ちゃうじゃないかなということ。つまり、たくさんの女とやりたいとは思うけど、浮気は駄目等の問題があるため、彼女としかやりませんという理論。まあ僕がぴんとこないと言ってる二点は、別問題なので僕の方も問題があるといえばあるけど、問題提起する側にもう、ご都合主義的なオタク像ではないものを提起して欲しかった。まあ、本田透電波男』が一部のオタクのマニフェストになってるみたいなので、それを読んでから考えれば良いのかもしれない。とはいっても、この本のこと知ってたんだけど2ch内で悪評ばっかだったからスルーしてたのでどんなもんだかって感じ。悪評というのは、自分達にとって都合良すぎとかそういう感じ。自我に葛藤抱えるような、そしてそれが普通だと思うようなオタクから見るとそういう感じの本なんだろうと思われる。
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